人間性や人格の存在しない小説は成立するのか?【考察】

人間性や人格の存在しない小説は成立するのか?

ふと疑問に思ったことがあるのですが、人間性や人格の存在しない小説は小説として成立するのでしょうか?

例えば、動物や自然を主人公とした小説です。

彼らの振る舞いを人間であるかのように表現する擬人法という手法はありますが、これを使っている時は、人間そのものが存在しなくとも、彼らに人間性を見ています。

この擬人法を廃した小説、つまり人間の心理的性質が存在しない小説を書くことは可能なのでしょうか。

擬人法のおさらい

擬人法は、人間以外の存在、例えば動物、植物、自然、概念などをあたかも人間であるかのように叙述する技法です。

例えば、鳥が朝の訪れを祝うかのように歌っている、とか、ゴーストタウンの荒涼としたビルの隙間を一陣の風が駆け抜けた、といった表現が擬人法に当たります。

歌うとか駆け抜けるといった表現は人間的なものであって、実際には鳥は鳴管を使って音を発生させているだけですし、風は気圧の高い方から低い方へと気体分子が移動しているだけです。

擬人法を使った小説で、恐らく日本で一番有名なものが、夏目漱石先生の『吾輩は猫である』です。物語全体が猫の視点で描かれていますね。語り手である猫は、まるで人間であるかのように振舞っていました。

擬人法を廃して表現してみる

まずは上で挙げた鳥の例を擬人法を使って表現してみます。


一羽の鳥が朝の訪れを祝うかのように歌っている。彼女はその歌声で仲間を呼んでいるようだ。彼女の歌声に魅せられた鳥たちが、一羽、また一羽と集まってくる。彼女のいる止まり木はコンサートホールとして鳥たちを迎え入れている。ある者は彼女の歌に聞き入り、またある者は彼女と共に歌い始めた。


バリバリ擬人法を入れた例文です。

ここから擬人法を廃し、人間性を取り除きます。


夜が明けた頃、すずめの一個体が鳴管を共鳴させて音を発した。その音がした後、複数のすずめの個体が、音を発した個体のいる木に飛来した。いくつかの個体も最初にいた個体と同様に鳴管を共鳴させて音を発した。


……。

……レポートだこれ!!

何の情緒もない、事実を並べただけの文章になってしまいました。観測者(この場合は私)から見た事実を読み手(今読んでくれているあなた)に伝えていますが、鳥がどんな意図を持っているのかは私には分からないのでこうなってしまいます。

意図を想像するならば、「鳥が音を発した」という事実と、「別の個体が飛来した」という事実を結びつけて、「なるほど、音を発していたのは仲間を呼ぶためなんだ」と考えて文章に盛り込むことになるかと思います。

ですが、どうやら仲間を呼んでいるようだ、という私の感想にも「仲間を呼ぶ」という擬人法が入ってしまいますし、やはり鳥の立場から、鳥を人間として扱って話していることになってしまいます。

人間性、人間味を無くした文章を書くとなると、どうしても意図や感情を除いた事実のみにならざるを得ませんね。

もはや結論が出たようなものですが、念のためもう一例。今度は無生物を主人公とするため、地球に登場してもらいましょう。


宇宙の開闢からどれほどの時が経ったことだろう。小さきチリの塊だったものが、幾度となく衝突を繰り返し、熱き炎を生み出した。その炎の周りには、さらに小さきチリの塊たちが、それぞれの思い描く姿を夢見て衝突を繰り返し、形を作っていった。赤き星やガスの星の兄弟として、水をたたえる青き星、地球は生まれた。これらの塊は熱き炎に引かれ、その周りを漂うことになった。


だいぶ中二病成分マシマシの例文です。ここから人間的な性質を廃します。


現在から約138億年前、ビッグバンにより宇宙が生成された。宇宙が膨張し、その過程で形成された原子同士が核融合した結果、恒星が生み出された。恒星になるほどの質量ではない球場の物質については惑星となり、恒星の引力によって公転を行った。現在から約46億年前、恒星の一つである太陽の周囲を地球が公転するようになった。


……。

……やっぱりレポートだこれ!!

擬人法を入れないとすれば、無生物が感じているであろうことを想像して文章にすることも出来ないため、事実の羅列になってしまいます。

そこにはドラマや感動は存在せず、ひたすら事実の並ぶ平面があるだけです。

事実の列挙に対して、著者としての私の推論を入れることはあるかもしれませんが、それを文章に入れたら私の人間性が入ってしまうため、今回考えている人間性や人格が存在しない小説という縛りプレイ条件に抵触してしまいます。

推論の中には「〜〜だと考えられる」とか「〜〜と言える」といった形で、人間である私が出現してしまっていますからね。

そういう意味ではレポートだって、仮説を立て、検証のための事実を並べ、そこから推論を行って最終的な結論付けを行うのですから、人間性が全く入り込まない訳では無いんですよね。書いている人の考えが入っていますから。

早速の結論

擬人法を取り除いて人間以外の事象(動物、自然現象、概念)などについて述べようとすると、事実を羅列した文章にならざるを得ません。そこには情緒や感動といったものはなく、機械的な文章があるだけです。

つまり、人間性や人格の存在しない小説は小説として成立しない、というのが私の結論です。

小説には人間的性質が必要で、人間以外の動物や無生物については擬人法による人間的性質の付与が必要になります。もちろん、単なる舞台装置としてそこに存在している限りは、擬人法は必須ではありませんが、その場合は単にそこにあるという事実を述べるに留まるでしょう。

文章表現では人間は特別な存在

ところで、「鳥が歌う」という表現は、「鳥が鳴管を使って音を発生させている」という観測者から見た事実に擬人法を適用したものです。

これって、逆に考えれば人間についても同じように事実を述べてもいいはずです。例えば、「マリアはその喜びが溢れ出るかのように歌った」という表現を観測者から見た事実に変えれば、「マリアと呼ばれる人間は、呼気によってその声帯を震わせ音を発生させた。その周波数は時折高くなることもあれば、低くなることもあった」となります。

このように人間に関して述べる時も人間的な表現を排除することだって出来ます。でもほとんどの人が暗黙的にこんな表現を使わないでいますよね。

これはやはり人間について語る時もその人間性や人格が重要になってくるからです。さらに、なぜ人間性や人格が重要になるかと言えば、文章の受け手が人間であるからです。

今この文章を読んでくれているあなた、そう、あなたも人間ですから、人間性や人格を使った表現を通して登場人物の行動や情緒を理解しているはずです。

つまり文章表現で事実の列挙という形で表現されることがなく、当たり前のようにその人間性や人格を使った表現が使われている人間は、文章の中で特別な存在なのです。その理由は、文章の受け手が人間だからに他なりません。

まとめ

結論付けてしまえば当たり前のことのようですが、人間性や人格の存在しない小説は小説として成立しない、という結論に落ち着きました。

受け手が人間であるからこそ、擬人法など、受け手が理解できる人間的表現が使われます。

逆に言えば、人間的表現がうまく出来ていない小説は、受け手に理解してもらえない危険をはらんでいますね。

小説において、人間性や人格、もっとざっくり言えばキャラクターをうまく描くことが重視される理由もここに起因していると考えられます。

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